漠然と考えたこと
その時の発見が今に繋がってるけど
こんなことになるとは
自分の人生
本当に可能性しかないんだ
人は本当に愛しかない
握手しただけで
涙があふれる
怖い怖いって逃げてきた
たくさんの呪縛
でも本当は
世界が幸せに、って
歴史も全部塗り替えるほど
本当は世の中こうなんだって
そんな未来は本当に来るんだって
そして私はとても大切な役割があるんだって
そんなふうに思い込み
自分を律して生きてきてみて
窮屈にも感じて
感情押し殺して生きてきて
それでも私は幸せなんだと
必死で自分にいいきかせてきた
見えない世界との戦いみたいな
そんな毎日
それでも私は
自分の中にある本当に消えない可能性を
いつだって信じたいし
信じてきた
だからいま
本当にこのままでよし!
そんな自分が目の前にいる気がして
とてもとても
怖くて、でも楽しみで 何より愛おしい
そんな私が今いるんだな
全部手放して
本当に愛と喜びで
生きる私でありたい。
]]>娘の中学3年間
いろんなことがあったけど
過ごしてしまえばあっという間でさ
大分にフォトショップとかイラストレーターとか学びにいったり
娘のダンスの送迎したり
東京と大分を行き来したり
隣の家のこーちゃんが本当にかわいかったり
いろんな変化とともに
娘はカナダに留学することが決まって
東京に戻るタイミングで
コロナがやってきて
思ってた以上に長引きそうだし
不安がすごかったんだけど
湯布院で生活する間、私はいろんな変化があって
会社を縮小して
ちょうど東京に戻る2020年は恵比寿の1店舗になるっていうタイミングだった。
いろんなことクリアにして
新しくリスタートのつもりだった
だけど
先が見えない不安と
引っ越しのタイミング
娘のカナダ行きも飛行機が連日キャンセルで渡航できない
なんか全部がうまくいかない
東京に戻ったら色々がんばろーって思ってたのに
いつまで続くんだろって
会社のスタッフも
いい子入ったーーと思ったら
病気になったり
急に連絡が取れなくなったり
自分の夢に向かって行くことを決意したり
今まで人が足りなくなったりすることほとんどなくて
本当にタイミングよく素晴らしくスタッフが集まってきてたから
私はいつでもラッキーだし
絶対になんとかなるだろって思ってたんだけど
そうもいかず。
いいこともいっぱいあったし
嬉しいこともいっぱいあったけど
もうなんか何が正解なのか
全然わからないなーってなってた。
スタッフはほんと、いい子だし
写真も上手になっていくけど
なんか私がやりたいことと違う
そんなふうに思いながらも
やれることなんだろって
大人の撮影を考えてみたりしながら
BNIに誘われて入ってみたり
そこでの人脈から
いろんな新しい世界が見えたりしてた。
そんな中で出版したり
BNIのディレクターになったり
今までとは全く違う人脈ができたりして見える世界が全然違うなって感じて来たけど
コロナで不安しかなかった会社の売上は思ったほど大変にはならず
だけど
少しずつコロナが落ち着いて来ると同時に
いろんな困難がやってきて
自分の中の新しいチャレンジと
現実が全然釣り合っていかなくて
それでも今までなんとかうまくやってきたしねって
すごい深刻なふりして
めちゃくちゃ楽観的に
なんとかなるだろ、今までだってなんとかなってきたしねって
そんなふうに過ごしてたのかもしれない。
私なりにはめちゃくちゃもがいて
あーでもないこーでもないって
お金と時間を使って
苦手なこともしたし
自分を奮い立たせて
新しいチャレンジもしたんだけど
どれもなんだかしっくりこなくて
結果気づいたことは
本当に私が欲しい物は、
心の平安なんだなっていう、結論。
たくさんの出会いと
気づきと
自分の人生との向き合いの中で
苦しくて逃げ出したくなることばっかりなんだけど
それでも私は本当にラッキーなんだと思える
大きな収穫もあった。
そもそも改めて今
自分の過去を振り返って
自分が大事なポイントを文章にしようと思ったのは
私自身の人生を本当にもう一度再創作して
今の、ありのままの自分を
しっかり受け止めて
これからの人生を生きていこうと思ったから。
そうこうしているうちに
今もなお、毎日怒涛の忙しさと気付きと直面で
死にそうになったりもしてるんだけど
後少しでなにか掴めそうなところまで、来てるかもなあという感覚はある。
]]>
2017年かな
たぶん
娘が小6の卒業を終えると同時に
私は東京を離れて大分の湯布院に引っ越しをした。
離婚したから
それがきっかけもあったんだけど
ずっと会社をスタッフたちにもっと任せて
利益ももっと自分たちでとれるようにしていきたかったし
いろんなことに
今思えば人間関係とかね
疲れてたんだろうな
みんないい子だったし
お客さんもたくさん来てたし
それなりに人気あって
助けてくれる友達もたくさんいて
そんな中で、私はPARISで生活したいなとずっと思ってたけど
なかなか現実的にそれを実現させようと思うと
ハードルが高かった。
だけど
日本国内であれば
何かあればすぐに飛行機でとんでこれるし
なんかかんたんに思えたんだよね。
引っ越しするまで
恵比寿には3つの店舗と事務所があって
それぞれのスタジオや事務所にはスタッフがいて
外注で手伝ってくれる心付いよい仲間もいて
私って普通にものすごく恵まれてるし
なんかこのまま店舗がいい感じに拡大して
なおかつ私の手を離れて経営がなりたっていけば
いいことしかないなーって思ってた。
もっとスタッフたち一人一人が
やりがいもってスタジオで仕事できるし
やった分だけお給料もあがったら
やる気ださないスタッフとかいないと思ってたからね
湯布院に引っ越して
そこで新しい生活がスタートして
最初はなんだか数年間忙しかったいろんなつけがまわってきて
書類とか色々
めちゃくちゃ時間がかかって
それを整理して毎日が過ぎた。
家で食事とか作ったりすることもほとんどないから
私の料理のレパートリーってめっちゃ少ない
それでもたまにしか作らないから別にこまることもなく
だけど引っ越してからは
毎日自分が家のことしながら
娘の学校のことも
離れた土地での暮らしも
湯布院に行くと決めてからとった運転免許も
40歳を超えてから
新しい事がたくさんで
振り返るとほんとに贅沢ですごくラッキーなこと。
妹の家のとなりにあるマンションをしらべたら
分譲マンションだったけど
リゾートマンションで
見に行ったら温泉がついてて
なんだか急に贅沢な環境
だけど
私が東京に行ったりするときに娘を預けていけるように
絶対隣に住んでるほうがいいよねってことで
すぐに家を決めて引っ越しが決まって
トントン拍子に新しい暮らしが決まった。
料理とか全然できないし
そもそも食べることにあんまり執着なくて
何でも良かったから
今までは口にしなかった菓子パンとか何故かスーパーで買い込んで食べたりして。
妹の知り合いの団子屋さんが人手が足りないから手伝ってと言われて
軽い気持ちでOKしたら
週に4回くらいはいることになって
なんか普通に仕事みたいになってたし
湯布院に引っ越してからの私は
人生での初体験をたくさんした。
人に会うこともほとんどないから
娘と向き合う時間を本気で持とうと思って引っ越したけど
1,2ヶ月たったらやっぱり私は仕事がないと無理なのかなーとか
色んな気持ちが出てくる中で
スタッフを順番に湯布院によんで
色んな話をする中で
良くなるとだけ思ってた私の考えが本当に甘いんだってことを知った。
理想だった私の会社のあり方は
これっぽっちも存在してないんだなっていう落胆と
自分が一生懸命培ってきたものってなんだったんだろうっていう失望感と
想像もしてなかった裏切りと
それに気づかないスタッフと
バカばっかだなって
ほんと、社員って信じた人が馬鹿をみるんだなって
そんなよくわからない一般論みたいなものを信じて受け入れることが
自分の平常心を保つための唯一の方法みたいに思えた。
湯布院で感じた色んな気持ちは
私の人生で初めてのことばっかりで
あの頃は
離婚したせいで自分を責めて
全部うまく行かないのはなんかもう仕方ないし
自分で選んだ人生なんだって思いこんでた
だから
仕事も何ももう無理かもなって思って
どうやって手放そうかなと思ってた
だけど
そんなときになんか不思議なタイミングで
私のことを応援してくれる人との出会いがあったり
新しいことに目を向けて見ようと思ったり
隣の妹の家に新しいベイビーが生まれて
信じられないほどその子に癒やされてみたりと
少しずつ少しずつ
3年の間に新しい出会いが増えて
知らなかった世界をしって
私もまだまだなにかできるかもしれない
あきらめなくてもいいのかもしれないって
そんなふうに思えるようになった。
湯布院で過ごしてる期間で
私の肌荒れの原因が食生活にあることとか(当たり前の気もするけど考えたこともなかった)
健康のこと
経済のこと
なんかいろんな
今まで考えたことなかった世界を知ることになった。
]]>色々語ってきたし
これまでに何度も。
コンセプトがあって
素敵なスタジオだよーって
誰にも真似できないって思ってたし
空間とか
スタイリングとか
色々本当にすてきでしょーって
確かに素敵なんだけど
私がここ数年で直面したことが何かというと
自分の理想と
人が感じることには大きな違いがあるんだってこと。
実際
この表現であってるのかはわからないけど
理想と現実は違う、ということを思い知った、と、思っていた。
ややこしい・・・・w
素敵なことを提供して
全くの無名であるわけでもないし
ここで働きたい!って言ってくれるスタッフがいつも集まってくれて
そういう環境があたり前だったし
やりたいことも溢れてきて
いつか全部叶うんだって思ってた。
PARISが大好きで
PARISに住んだり
そこでスタジオやることも考えたりして
不動産調べたり
ビザのこと調べたりしたんだけど
結局現実にはそれを実行することもせずに
コロナがやってきて
コロナ以前に
会社のスタッフへの不満と
目の前にある問題からずっと目をそむけて
自分はやれること全部やってるし
わからないみんなが悪いし
私のこと本当にわかってくれるスタッフってどこにいるんだろうって思ってた。
やめると言われたら
めちゃくちゃ悲しいけど
常に経営者は強くないといけないと思って
特に気にしてないふりをした
フリなのかなんなのか
自分でもよくわからなかったけど
会社を経営してたらそんなの当たり前かのように
自分に言い聞かせて過ごしてた
だから
だんだん何がしたいのかわからなくなってたし
スタッフの気持ちとか
寄り添ってるつもりで
なんにも見えてなくて
私を理解してくれる人がいない環境での仕事って
地獄を生きてるみたいだなって思うようになった。
途中で
離婚もしたし
引っ越しで東京から大分に移動する過程の中で
生活が一変して
常に自由を選んでいると思ってたけど
何がしたかったのか
私はどこに向かってたのか
今となったら全然わからないんだけど。
その時その時は
自分の出来ること必死でやってたし
それが正義かのように生きてたんだけど
色々苦しくて
何をしたらいいのかわからなくて
誰かにすがりたいし
助けてほしいし
だけど
それを口にしたら死んでしまうかのような気持ちになって生きてたのかもしれないな・・・・
]]>
これ、どんな意味があるのかって
経緯をよく聞かれたんだけど
話すと長いしってことで、いつもなんとなく濁してきて
今ここで書くとなるとなんだか今更感もあるんだけど
大事なことは
ブランドの名前には、やっぱりそれなりに想い入れがあるってこと
そして
覚えてもらいやすいこと
他と違うこと
色々あるんだけど
ナナジュウゴシー
と、よみます。
ライフスタジオの恵比寿店をオープンして
思ったことがあった
めっちゃくちゃお客様が来るし
衣装どこで買うんですか?って質問もめっちゃくる。
だったら
絶対セレクトショップやったほうがよくない??と、思ってた。
でも私
何をするにも思いつきで
ちゃんと企画書つくったり
プレゼンしたりとか
そういうのが本当に苦手だから
社長に色々聞かれると
そんなの聞かれてもわからないし
ただ直感でいいと思うと言うしかできず。
そんなときに恵比寿に店舗をオープンしたから
やっぱり私はセレクトショップがやりたかった。
だから
チャンスをなんか探してたんだよね。
そして当時弟が不動産で働いたりしてたから
なんか、暇さえあれば不動産物件みて
気になるところを見に行ってた。
そして発見したのが
恵比寿22番館があった
駅から徒歩2分の物件。
駅徒歩2分なのに
値段が安かった
店舗もOKとかいてある・・・・ということで
即効見に行くことになったんだけど
まあ、階段で。w
登りながら
流石にお店でこれはないかーーと思ってたんだけど
中に入ったら
天窓みたいな
なんだかなんともいえない素敵な空間に
私、なんかピンときて
すぐにここ、かりちゃえーーとなった。
借りたところで何もすぐにはできないのはわかってたんだけど
止められない感じで私。
借りてから社長に話したら
めっちゃ怒られたけど
内装工事はいつになるかわからないから
そう思っとけと言われ
まあ、仕方ないかと気長に待つことに。
当時内装を自分たちでやってたライフスタジオでは
外注するとかいう選択肢は全然なくて
数ヶ月分の家賃をはらったとしても
ぜったいに内装は社長にお願いするのがいいと思ってた。(金額的に)
そしたら
3月に地震があって
店舗の工事の予定が色々変更になって
急遽工事着手。
5月3日は私のバースデーだから
その日にセレクトショップをオープンすることになって
ホームページとか
商品仕入れとか
色々準備して
スタートした。
お店の名前は
momdoll
これまた運命のような出会いで、
当時一緒に仕事することになったうつみさんとの出会いから
セレクトショップ兼カフェをオープンした。
最初は私が店舗に立って
ライフスタジオの新しい店舗の内装とかも私が手掛けていたこともあって
色々知らないわりに
私はなんとなく順調に赤字を出さずに
スタジオと
セレクトショップを行き来しながら
楽しいし
夢のある仕事をしてたんだけど。
少しずつ
人から色々言われるストレス
それも同じ会社のグループの中で
自分だけが自由にやってることへの避難とか
いろんなのがでてきて、ストレスで死にそうになって
独立しちゃおうかなーーって
思ってたけど、えいって飛び込めなかったところに
思い切ることができる瞬間がやってきて
めちゃくちゃ心の中であっためていた
数字×アルファベットのブランド名
ここで 75c が浮上して
なんとなく、採用。w
75は
実はカカオ75%の数字で
別に当時のライフスタジオが75カットの写真をお客様に渡してたからでも
私が75年生まれでも
その他色々周りに言われた理由でもなく
カカオ75%が好き
っていう友人の言葉から
大事な数字になった、っていう経緯。
そしてアルファベットは
順番に
75a
75b 75c....って響きから
ん?
よくないか・・・・・??って
そんな流れでちょっと私の心に留まってた、ブランド名の候補だったんだけど
社長にライフスタジオから独立スル宣言をしにいった時
ブランド名をきかれ
全然考えてないといったら
そんなわけ無いだろと言われて
そこからの
浮上してきたやつ。
オープンまでに
もっといい名前が決まったらそれにしようと思ってたけど
時間が経てば経つほど
なんだかしっくり気に入って
ナナゴーシー
とか
ナナジュウゴドシー
とか
色々言われるんだけど
違くて
ナナジュウゴシー
となりました。
ちなみに
カカオ75%のチョコをメインで作ってる
フランスのチョコブランド
【フランソワ・プラリュ】っていうのがあって
そのブランドとの出会いが全てのスタートだったりするんだけど
こんなふうに
私は昔からなにかにつけて意味づけするのが得意。
そしてコンセプトに織り交ぜたり
自分の想いを表現するのに使ったり
そういうのが凄く得意だし
好きなんだってことを、このことを通しても感じるようになって
それがこれまで何度も何度も私にチャンスをもたらしてくれた。
自分の得意を形にしていく場所があるっていうのは
それこそ本当にとっても大事。
75cがオープンした時は
photostudio75cだったんだけど
なんだかしっくりこなかったんだけど
つけないとなんだか何なのかわからないしねってことで
つけただけになってた。
途中でね
いざ、独立してから
もっとお客様に知ってもらうにはどうしたらいいんだろうって
コンセプトごとに違うスタジオを展開しながら
思いついたのは
【photostyling】でした。
商標とったりするのにも
色々と難しさがあったりしたんだけど
最終的にはphotostyling75cは
ロゴ登録ができて
無事にお見せできるようになって
今に至る。のです。
言葉一つにも思い出があって
思い入れがあって
とても、大切な、私を作る要素であるということ。
]]>
ちょうど日本でシャネルの映画が3本立てで公開されて
大好きなさきさんが
シャネルの映画、絶対みてね!!って言ってたから
全然ブランドとかに興味のない私だったんだけど
映画見に行った。
順番がどうだったかとか
全然思い出せないけど
仁美と
神楽坂の仁美の家に泊まりに行って
神楽坂の、坂道を歩きながら
私がやりたい【女の子専門店】について
話をした。
ただただ
自分の理想とした形を
イメージして言葉にする
それが楽しかったし
ある意味あの時は
叶うと思ってなかったからこそ
自分の口にスルことができてたのかもしれない
仁美は大学の後輩で
だけど留学時代は重なったことがなくて
妹の妙子が
仁美を連れてきて
一緒に仕事をするようになった
わかこも妙子も仁美も
おしゃれで人当たりよくて人から好かれて
本当に贅沢なメンバーなのに
私はスタッフたちのダメ出しばかりしてた
私の理想を現実にするために
みんなが過ごすスタジオの空間を私がしっかりつくっていくねって
6人兄弟の2番め長女の私は
なんだかそんなふうに
みんなのために私がやってあげなくちゃって思ってた。
だから
そこに乗っかってきたらいいんだよって
多分本当にそれが一番最善なんだと思ってた
今となっては何が正解なのか全然わからないし
そもそも正解とかもない気もするけど
ただただ私ができる精一杯だった
それが周りにどんなふうに写っていたとしても
私は本当に社員が大切だったし
それが私にできる最善だと思ってた
だからそう思うことだけを
本当に周りを信じていつも、やってるって思ってた。
恋するマドモアゼルってさ
ほんと、私が考える女の子専門店を表現するのに
本当にものすごくいいコンセプトだって思う
未だに思う。
しかもなにげに【恋するマドモアゼル®】って商標もとってる
なぜだか
そうしないといけない気がするくらい
大切にこのコンセプトと向き合ってた私。
社長から
自分が大事にスルものは常に
すぐに商標をとったほうがいいと言われて
そのとおりにしただけなんだけど
結構大事なことだった
私が考えたコンセプトは
それだけで世界観がイメージできるような
そんなものだと自分では自負していて
ちょうどさきさんに言われてシャネルの映画をみて
そこからいろんなことを知りたくなって
日本で買えると思われるシャネルの本を全部、買いあさり
それを毎日読んで、読み明かす日々
そこから
自分の独立までに
あっという間だけど
必死で向き合って、うまくいくかどうかわからない恐怖とか
そういうものと向き合うために
ブログに向き合って
自分の気持ちを書き綴ったりした。
頭の中には
ものすごく明確なスタジオのイメージがあって
誰にも真似できないし
きっとそこに募ってくるお客様とは
本当に気の合う友達みたいな
そんな関係になれるような気がしてたし
口コミで
絶対に広がっていくだろうなっていう核心みたいなものがあった。
だから本当に
規模は小さいけど
最高のスタジオだと思ってたし
もちろん今でも思ってるけど
小さくても
ずっとずっと、語り継がれるような
そんなスタジオで有り続けられるような気がしてた。
]]>
スタジオメモアってね
私の友達が、アメリカに住んでて
私がスタジオ出すときに、何かで連絡をとってたんだよね
なんだったんだろ・・・・
メールかなにか?
スタジオの名前を考えるのに
なんだかパッとしたのがなくて
全然センスいい名前が思いつかなくて悩んでたときに
友達が
【Memoir】で、メモアってどお?って連絡をくれて。
日本だと
メモアールとかメモワールってよんで
なんだか響き的にあんまりだったんだけど
英語で読むとメモアっていうんだよーって
これ
伝記、とかそういう意味があって
家族の写真とか撮っていくなら、その家族ごとの思い出を
写真で綴っていくっていう意味で
いいんじゃない??って言われたの。
それで
それをそのまま提案して、採用されて。w
だから、スタジオメモアっていう名前で
オープンした1号店。
2号店を出そうかって話になった時
李社長が【LIFE STUDIO】に変えたいっていうから
えーーー
そんな早くーーーって思ったけど
まあ、仕方ないか、って感じでその時は。
私がスタジオの名前を決められるだけの決定権ないしね。と、思ってた。
本当は
ライフスタジオってなんか名前があんまり好きじゃなくて
やだなーーって思ってたけど
その時は社長の想いとか
そういうのも全然わからないくらい
自分の考えとか思ってることが一番いいだろとどこかで思ってて
それを察してくれる人が正義みたいな私だったなと。
ライフスタジオは
社長の想いの通り
覚えやすいし
すぐに浸透して
名前が変わったことを残念と言ってくれる人もいたけど
本当にオープン初期に、めちゃくちゃスタジオを大切にしてくれたお客様から
自分たちが見つけた特別な場所がなくなっちゃう気がして
寂しいなーーみたいに言われた
だからそんな気持ちをちゃんと
私達は覚えてますよ
感謝してますよってとこから
ずっと関わっていきたいなって思ったんでした。
スタジオメモア
なくなっちゃったけど
そのあと着々とライフスタジオは店舗を増やして
私も
大好きなインテリアとかそういうの
どんどん任されるようになって
それが本当に楽しくて
ワクワクしながら仕事してたんだけど
大切にしたい気持ちとか
色々人が増えていくと
結局思えば自分の想いを貫きたかった私は
フランチャイズのオーナーが増えれば増えるほど
なんだかうまくいかなくなって
そこから抜け出すことばっかり考えるようになった。
ライフスタジオを子供のように思ってたけど
一社員である私は
何も発言力を持たないと思ってた
言っても無駄
勝手にそう思ってたから
泣いて泣いて
きっと心の中では社長が私の味方してくれるんじゃないかって
一緒にやってきたし
きっとどこかで私のことをわかってくれてるって自分の都合だけを押し付けてたんだ
だから
ずっと解決策がみつからなくて
苦しかった
そんな中母親ががんになって
精神的に色々苦しくて
仕事をやめようと思ってたけどそれもそのままなんとなく言い出せなくなって
それを機に社長から
独立してスタジオのフランチャイズオーナーになることを提案された。
だから
私は自分のスタジオをもたせてもらうことになって
カメラマンじゃないし
女だし
当時はそんな事考えてた
私にできるわけない
私が社長になんてなれるわけない
って。思ってたんだよな。
だけど
私も知らない間に
社長と一緒に仕事をする中でいろんなことを学んでたから
会社を作ったりとか
お金を借りたりとか
そういうこともこなして行けるようになって
いろんなこと、思った以上にスムーズで
会社の名前も
私は迷わずメモアにしたんだ
それを社長に話した時
ちょっと喜んでくれたと思ったんだよなー
]]>色々あるけど
かなりの優先順位の高さで
李社長との出会いがある。
ほんとに運命的。w
正直普通に考えたら
なんで恋愛感情が生まれなかったのか不思議だなと思うくらい
本当に何でも言えて
頼りにしてて
そして、いつも一緒にいた。
最初に出会ったのは23歳のときで
私が、旦那さんとのウェディング写真を撮ってもらった時。
そのあと再会して
まさか一緒に仕事することになるなんて思わなかったけど
そこから5年後
娘の出産と同時に
私に人生が色々変化し始めた。
もうここからのことって何度もブログに書いてるし
多分このブログのどこかにも
社長との出会いのこととか
めちゃくちゃ詳しく書いてた気がする。
スタジオのオープンのときにももちろん書いてる。
だけど
今思うのは過去のことよりも
この先の未来なんだ。
私はなにか困難があると
過去を振りかえって
どうやって乗り越えてきたのか
どんなふうに自分がやってたのかを真剣に考えて向き合ったりしてた。
だけど
大事なのって今はもうそこではなくて
これからどうして生きたいのか、ってこと。
李社長と出会い、ライフスタジオをオープンするまでの私は
ほんとに世間知らずで
仕事もバイト、しかも派遣とかしかやったことなくて
いや
本当に世間知らずで(何度も言うけどほんとに)
ちょっと今だったら恥ずかしいくらいなんだけど
だけど必死だったし
自分が社長と一緒に仕事をスルことで
得たいものが明確にあった。
お金を稼ぐ方法ももちろんなんだけど
私の人生をどう生きるのか
そんなことを本当に本気で考えて
向き合わせてくれる社長だった。
いろんなタイミングがすごくラッキーで
私はなんだかほんとに運がいいんだけど
それも私が引き寄せてるという言葉に
あんまり素直にそれを受け入れることができなかったんだ
だけど
今は本当にそうだなあと思うし
それがすごく自分の人生を更に豊かにしてくれる気がしてる
人に認めてもらって
チャンスをもらって
それによって自分が想像してた以上の世界を見ることができたって思ってる
私学生の時に
すごく怖いし苦手な先輩がいて
その人に、自分の過去の話をしたら
なみちゃんのその人生いつか本にしたらいいねといわれて
調子にのって
いつか本を出したいと思ってた
だけどその本は
私が有名になって
私のことをただただ綴り、そこに私をこうして作り上げてくれた
たくさんの感謝すべき人の名前を書きたいと思ってた
私が愛する全ての人に
その想いを伝えたいと思ってた
だからそれがすごく具体的な私の人生の目標みたいになってた
2006年の12月にスタジオメモアをオープンして
mixiでお客様の集客に成功したんじゃない?!って思うまで
地獄みたいな時間だったけど
でも
今思えば半月くらい
今みたいなスタジオもなかったし
かなり周りからは批判されたけど
ただただ私がいいと思うものを
いいと思う人は一定数いる
ただそれだけの根拠で
スタジオオープンして
口コミが広がっていくまでに
そんなに時間がかからなかった
これは本当に素晴らしい成果で
私、がんばったんだよな
mixiも
本当に本当に最高の媒体で
そこで出会ったたくさんの人との出会いも
今もまだ継続していて
SNSがまだ全然なかった時代
本当にそこに出会って最高に恩恵を受けた私。
]]>
初めて文字にスルなと思うこともある
だけど
学生時代をまとめるにしても
韓国の留学はあまりにも濃厚で
なんかここは区切ってみた。
韓国への留学
今みたいではなかったし
本当に人生の転換点だと思ってた
18歳
奄美大島で高校2年まで過ごして
3年はまた東京に戻って
なんとなく、東京で女子高生をして
留学。
新しい環境で
いろんな苦しみと
葛藤と
友達にも伝えられない気持ちがたくさんあった。
そして人生のとても大きくて大切な決断をした。
親の信じる宗教を
私も信じられる
そして
信じるよりも、私は留学して
自分がその世界をしったんだ。と、思った。
だからそこに従ったし
それが本当に私にはとても刺激的で
最善だった。
結婚も、そうやって
はじめましての人と
決めてもらった人と一緒になることが
私の人生の最高の、最善の方法なんだと思った。
私はたくさんの愛を受けて生きてきたし
幸せだと思ってたし
だからこそ
私には私が本当に愛せる人との出会いしかないのだと思ってた
だから全然不安とかなくて
希望に満ち溢れてた
18歳ってすごいし
私すごかった。
だって本当に
私の人生のとっても大事な大事な決断を
本当に私
自分が自分の意志で決めて
そこに、身を委ねて
心配する両親を説得するために
私にできることをして
そしてその時をまって
旦那様と出会った。
うーーー
だけど好きになれない人だった。
笑えないけど
笑えなかったけど
今は笑える
他人事みたいに思う、自分の思い出も
今となっては私の人生に欠かせないものだったのだと思う。
だからあえて
今、私の人生を隠すことはできないし
それが本当に
あの時のワタシには最善だった。
そして
大学進学を決め
私は韓国の大学に進学することになって
統一神学科に入学した。
韓国語は上手な方だったけど
やっぱり勉強は好きじゃなくて
要領のよさだけで生きてきて
なんとなく、成績も悪くはなかった。
7つ年上の旦那様とは
いろんな事があったけど
尊敬できる面があって
それだけで私は一緒にいれた
とても大切なことだったから
だけど心の中はなんだかいつも満たされなくて
いつになったら私はこの人とともに
私の理想の人生を歩めるんだろうって思ってた
普通にいったらちょっとおかしいよね
宗教やだなって思われる
それもわかってた
だからあんまり言いたくない
私の旦那様がきらいなんですなんて
絶対に口にできないし
私が悪い
私がわがままなんだって言い聞かせてたのかも
いい人なんだけど
そういうのどうでもよかった
ただただ愛されたかったんだけど
その時はそれもよくわかってなくて
満たされない気持ちは
寂しさだったんだなと思う
口にすることもできなくて
さっしてよって
自分から気づいてよって
そして私の理想になって生きてくれなくちゃって思ってた
全部おしつけて
でもそれを受け止めてもらえないことが
私の不満だったし
寂しさだったんだ
大学時代は婚約時代みたいに過ごして
私は大学を卒業して
25歳になる歳に
旦那様はアメリカの大学院を卒業してアフリカのケニアに赴任が決まった。
海外で生活したかったんだけど
アフリカっていうのにびっくりして
情報がなにもなさすぎて
一生日本に帰れない気がしてた
だけど
行ってみたら
色々あったけど今となってはマジでいい思い出しかなくて
むしろ私の人生の幅を思い切り広げてもらったんだなと思う。
大学時代は
韓国人の友達とほんと仲良くて
大好きだったし
みんな同じ協会の子で
だからこそ、同じ気持ちがわかるから
何でも話せた。
だけど
国の違いとか
色々あるから
だからこそ、安心できた私だったんだなきっと。
ケニアで暮らす中で
旦那様ともたくさんぶつかったけど
2人しかいないから
いろんなところを超えたんだ一緒に
私は
強い性格だけど、旦那様に頼って生きたいと思ってた
だから海外で
私が英語できないからさ
頼り切って生きていきたいって思ってた
あんまり伝わってなかったのは
私が全然伝えてないからなんだけど
それさえも私には不満だった。
学校にかよって英語の勉強をして
それがまた
なんだかいい感じに楽しくて
妊娠がわかったとき
日本に帰るのいやだった
つわりがひどくて
全然食べられるものがなくて
4ヶ月の安定期に入ってすぐに帰国して
そしたらそのまま韓国で出産することになって
その後は
自分でも不思議なくらいスムーズに?
今の仕事をすることになって
李社長と一緒に仕事してた。
いっぱい、端折ってるけど
もはや私の中で
端折れるくらい
いろんなことが整理できてるんだなーとおもったら
それはそれでとても嬉しい。
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ずっと思ってるのにかけないこと
どこかで誰かに知られてはいけないと思ってたこと
隠し通したいことだと、思ってたこと
全部結局自分の思い込みなんだなと思ったから
自分のことを本気で見つめるのは
何度もやってきたんだけど
今もう一度必要なんだと思う。
1976年の5月3日
小さい頃のこと
全然覚えてない
3歳くらいの時
おばあちゃんちに、おいていかれておもちゃを買ってもらった記憶
自分の中の記憶ってこれが多分一番古い。
アメリカの幼稚園のことは
写真とか
人に聞いた話の中の私としてしか記憶なし。
覚えてるのは
日本に帰ってきて
町田の広い家での暮らしと、幼稚園。
そこで友達になったかわいいロングヘアの子。
でも意地悪だったな。
記憶はあいまいだけど
その子からのとばっちり
色んな所で先生に褒められた
だから私は褒められて生きることの、醍醐味みたいなのもってたのかもしれない。
でも幼稚園の時は
いつも怒られて
嘘ついて
そんな記憶しかないかも。
引っ越して
小学校は3回変わった。
最初は小1だったから
あんまり記憶ないけど
小2までの座間の家での自分って
本当にひどかった。
なんか、お兄ちゃんにめっちゃ怒られた記憶と
いつも母親を悩ませてた記憶。
多分わりと頭が切れる子だった
周りよりも
だからいろんなアイディアが浮かんだし
今思うとそれは
周りよりも全然思考回路が早くて
小2としては
驚かれるようなことをたくさんして
見つかって怒られて
だけど対して自分の記憶にそれが
大変なこととして起きてなかった。
小3で引っ越して
4年間の小学校生活で
色んな体験をして
小3と小5、小6は同じ先生
小4のときの先生が、すごく好きだった
なんか
色んな場面で急に先生からほめられたり
抜擢される経験があった
足も速かったんだけど
小4のときにリレーの選手に初めてなった記憶があって
だから
なんなんだろ
特に得意なことがあるっていう認識はなくて
背が高くて
学年で一番。
太ってなかったけど
痩せてもなくて
洋服好きだったけど
おしゃれかと言われたらよくわからないけど
好きな物を着てた。
家でテレビとか決まった時間に決まったものしかみれなかったから
全然知らなかった
ドラゴンボールが流行った時も
ドラゴンボールの歌を男子が歌ってたときも
知らなくて
なんか自分がそういうのに、話題についていけないのが凄く嫌だった
めちゃくちゃ嫌で
なんとなく私は何でも知ってるんだよっていうのを
必死で装って生きてたのかもな
2人の先生から
自分のアイデンティティができたと言えるくらい
小学校の4年間
ほんとにたくさんの影響を受けた
もちろん親からもなんだけど
先生の影響が
本当大きかった
頑張ってるのにもっと頑張れって言われてる気がした
勉強特にできるわけでもできないわけでもなく
字がきれいって言われて
リレーの選手になって
あとは背が高くて
あとは好きな男の子の話が好きで
光GENJIが好きだった。
いろんな友達の
相談乗ったりして
誰とでも、仲良くしてた。
合唱団で小4から頑張って朝練して
歌上手だった。
楽器とかできないけど
ソプラノが綺麗にでるから
先生から団長を指名されて
やってた。
楽しかったし
自己肯定感がめちゃあがった。
それによって
他のクラスの友達とたくさん仲良くなって
学年の人気者の子と仲良くなった。
それがなんだか自分の中の優越感みたいなね。
中学なって
先輩へのあこがれ
あとホットロード。w
部活はバスケ部に入るつもりが
先輩怖かったし
陸上部の体験が楽しくてなんとなく入った。
走り幅跳びを小学校のときにやったら
先生からすごい褒められたから
調子にのってそのまま幅跳び専攻で陸上部
長距離嫌いで
トレーニングとかやだったし
色々ごまかして過ごしてたんだけど
中1の終わりに足にちょっとしたポリープ?みたいなのできて
手術したら部活にしばらくでれなくなって
そこから先生が担任だったんだけどなんかもめて
嫌いで、やだなーーってやってたら試合に出させてもらえなくて
そのままフェイドアウト。
バスケ部の先生と仲良かった
で
そのままバスケ部に入ることになった
球技が得意なわけではなかったけど
なんとなく
うまくやるすべをもってた
だからなんとなく
弱小バスケ部だけど
楽しくやって
あこがれの先輩もいて
先輩が引退したあとに入って
友達もいたし
後輩ともなんだか揉めたりしたけど
ふんわり?バスケ部に所属して
卒業した。
中学は
先輩のストーカーみたいな日々を過ごしたり
かわいい女子の先輩から手紙もらって文通したり
女子の先輩から呼び出しされてみたり
他のクラスの子と遊んだり
楽しかった。
いろんな事が
なんだか一番楽しかった記憶がある。
すごく好きな人ができたり
受験があったけどその時奄美大島に引っ越すことになったり
なんか色々
中学だけど一生懸命生きてたなw
小さなころから私は親が特殊だった。
特殊だと、思い込んでた。
でも気がつくまでどれくらいかかったんだろう
正直親のことを全然わかってなかった
自分の家の環境が周りとどう違うのかとか
あんまり考えた事がなかった
でもドラマティックな展開とか
ドラマとか映画とか
雑誌とか
そういう作られた理想みたいな世界がとても好きだった。
だから私はいつか
なんとなくだけど
ハッピーエンドな王子様みたいな出会いとかあったりして
幸せに一生暮らすんだと思ってた。
漠然と
真剣に生きてたけど
私が望む人生も
ただそれだけを考えるような
そんな学生時代だった気がする。
高校は急に奄美大島に引っ越して
そこで人生のいろんな初体験をした。
田舎暮らしとかバカにしてた
友達もいらないって思ってた
まだ飛行機とか
ねたら治る。
日本に戻った時はきついけど
こっちではいつも超元気
の、はずだったんだけど
ひたすら眠い。
午後になると特にやばい
しかも家にいると絶対に横になってしまう。だって眠いから・・・・
そしてねてる
割と本格的に寝てるから
メイクがめっちゃ落ちてる。w
日本で昼寝してメイク落ちる体験をしたことがないから
一体寝てる時にどんななんだろ、私・・・w
と思うんだけど
今日もやっぱり眠いから
歩いてすぐのところにある
ミスドみたいな、Tim Hortonsにきてみた。
フレンチクルーラーみたいなのを頼んだら
めっちゃ甘い・・・・
集中してここから
ちょっとこの間のことまとめるのがここでのミッション。
日本に帰る前にやるべきこと。
やろうと思ってたこと、とか。
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昨日の夜からなんとなく心にひっかかる気がかりがあって
それが思った以上に自分に大きくのしかかる
不安材料が自分にやってきたとき
まだまだ自分を律することが難しくて
だいぶ、本当に不安とかない日々を過ごしてたんだけど
体験したことのない
いろんな恐怖に塗れると
人ってこんなふうになるのかもしれない
悩んでる暇があったら
とにかく動く
ただそれだけなんだけど
うまくいかん
だからなんとか自分で自分の気持ちを把握するために
ブログに逃げる
たまにはそれでもいいと思う
なんでもいい
今のワタシはそうであるということ
ただそれだけ
なんだか自分が捨てられない
もっともっと
私はさらけ出して生きていきたいんだけど
全然だめなんだな
何を失うのが怖いのか
もはや失うものとか何もない気がするんだけど
なんだか今まで作り上げて来た自分が
好きすぎるのかもしれない
うーーー
どうでもいいなと思いつつ
めっちゃ重要なんだきっと
最高に良い格好シイで生きてる私
それも私
それは受け入れられるようになったんだけど
自分が期待する人に
なんとなく届いてないよっていうことを感じる瞬間の恐怖にもにた
なんか感覚が本当に怖くて
怖い怖い怖い怖いって
自分の中でぐるぐるぐるぐる
この区別が
本当にできるようになったら
本来私が生きたい人生を
もう少しほんと
生きられるようになりそうなんだけどな。
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今まで
素直に綴ったこちらと同じように
思うこと全部書くことにした。
使い分けよくわからないけど
色々と
もっと発信していこうかなと思ってる。
思ってるだけじゃ動かないけど
ありのままの自分が
なんだかいいかもと思えるようになってきてる、ここ最近。
嬉しい。
]]>あまりにも眠くて
ブログを開けず
だけど
今日は一つ大きな達成感があって
どうしても。
大切な人に
とても認めてもらった感覚があって
包まれているような
そんな感覚。
大事
そして私は人をうけいれて
承認したいのに
そこが本当に下手なんだなってことを最近痛感している
私は
自分が我慢すればいいっていう自分が、いて
そこからいろんなものをみてるから
すぐに自分にもどっちゃうんだけど
それをちゃんと区別できたら
もっともっと
自分がが好きになれそうなんだけど。
本当は大好きで
ただただ感謝してるのに
うまく伝える方法がわからないと思ってる今。
どうしたら届くかな。
]]>体が疲れて
そのまま寝てしまう毎日。
体が限界ーーーってなってるのに
なんで今それって
思われるだろうなと思うことが色々あるけど
自分のこだわり
自分の直感
強制的に
完了したり
はじまったり
その中で
私がほしいいろんな未来が
昔よりももっと鮮明に
夢物語ではない形で
きっとかならず
目の前に現れてくる
そんなイメージは
毎日膨らんでいく一方。
ただただ
毎日
出会えたことに感謝して
生きる。
そんな自分が
好きだったりもするのだ。
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