人の心はわからない・・・・と、思うことがよくある。だけど、本当はそう思えば思うほど、自分の心に聞いてみると、本当は心の奥底のほうで、答えなんて全部わかっているのかもしれないと思う自分がいたりする。でも、その心を隠してしまうこともある。何でかって言えば、たぶんそれが人の弱さだといえるのではないだろうか?
自分の心の中にある闇の部分。きっとどんなに善良な人間であったとしても、そういう部分を持っているんだと思う。著者が最初のほうに書いていた、先生のすばらしい部分について、そしてすばらしい人間性を自分が見抜いたことを誇りに思う・・・・という文章が心に残る。人としてそんな出会いができることは、すばらしいことだと思う。人によっては同じ人間を目の前にしても、自分の観点で相手を評価し、その評価がまったく正反対だということも、ある。自分にとっての相手がどんな存在になりうるのか、結局のところ決めるのは自分しかいないし、その評価を誰かから評価されるべきものでもないのだと思う。
友達を思い、良かれと思ってしたことが自分にとって思いもよらない苦しみになってかえってくることは、ある。先生が友達Kにしたように、その時点で考えられる最善は、自分の下宿に彼を引き入れること。でもそのときには娘さんとの仲を心配することなど、本当はこれっぽっちもなかったはずなのに、自分で作り出した状況に対し、日々変わっていく状況を受け入れることができずに苦しむ先生の姿は、本当に良くわかる。自分の中で必死に言い訳をしながらその状況を作り出す。そして、いろんな選択肢を考えては悩み、苦しみ、その中で必死に自分にとって何が最善かを、自問自答する。誰でもそんな経験はあると思うけれど、最終的にその決定によって何がどうなったとしても、それは自分自身にしか、責任をとることはできないのだと思う。この場合、誰がどうということは誰にも判断ができなかったと思うが、自分自身のおかれた境遇を振り返ってみると、同じように思う。
結局のところ、自分が悩んだフリをしているだけなのかもしれない。本当は自分が決めたことで誰も悪くない。仕方のない状況だったといくらいいわけをいっても、状況が変わることは何もなく、そこにいくら自分の立場や状況をつけたしたとしても、結局は言い訳にしかならないということ。だから、その状況を悩むのではなく、受け止めていくしかないのだと思う。
先生が最後に命を絶った。苦しさからだったのだろうか?と、考えてみる。苦しさから逃れるための決断だったのだろうか?
著者との出会いによって先生は救われたのではないだろうか?自分の中にある、長年わずらってきた苦しみから自分自身を解放するすべを、先生は見つけたのではないだろうか?自分自身を苦しめてきたすべてのことを明らかにすることによって、自分を受け入れ、著者に対してすべてをあかす・・・・つづられた手紙のその文章の中に、先生の人生の苦しみと言い訳のすべてを吐き出しているが、内容そのものではなく、その行為を行わせることのできる人物との出会いによって、彼は救われたのだと思う。
私が苦しみを感じるときはどんなときなんだろう?と、考えてみた。そしてそれを苦しめる要因はどこにあるのだろう?と。結局のところ自分の弱さとしかいいようもなかったりするが、それでも、その事実をしっかりと自分の中に受け止め、先に進める勇気を持つことのできる瞬間には、必ず誰かの存在がある。人は、人とのつながりを感じることによってのみ、強くなれるのだと思っている。どんな本を読んでも、結局はそこなんだなといろんなことを考えながら、思わされる。だからこそ、自分の人生を必死で生きていくことが大切なんだと思う。必死で生きた分、必死になって出会うたくさんの出会いがあるのだと、思うから。私は、そんな時間をもっともっと大切に、生きて生きたいなとあらためて感じる、大切なきっかけに、なった。